「慣れ」。例えば、新年度を迎えた春先には、先ずは一日も
早く新たな環境、生活に慣れること…と使われるのをよく耳
にするのだが、様々な場面で慣れることで、緊張感からの解
放や心にゆとりを持ち新たなことに立ち向かえる…そんな
良い?意味で用いられている。
しかし、極端な例だが、全てとは言わないがきれいに片付
けられていた家が、ゴミ屋敷と呼ばれる住居となって行く様
はどうだろう。少しずつ物が増え、一つくらいなら…、明日片
付けよう…が重なり、いつしか空間が埋め尽くされて行く、
その経過の中でいつしか生活に違和感を感じなくなり…。
「慣れ」は感覚を麻痺させてしまう物でもある。ましてや同調
者が居れば尚更であり、コロナ禍での本来は大変な生活の中
に居ながら、この「慣れ」の怖さを私達は何処かで忘れ、挙げ
句の果てに、いつしか、それが当然のことのように思い込み
で行動してしまってはいないだろうか。
この場でも何度か触れてきたコロナ禍。「えっ、またぁ〜?
」と思われるかもしれないが、私自身溢れる情報に正誤より
も反射的に耳を塞ぎたくなることも確かにあり、出来れば避
けたいと云う思いも。ただ、8月に入ってからの感染者数の
激増は、何処かで予測していた思いでありながら、それでも
先行き見えない状況への移行が、何故?どうして?の思いが
強く…。改めて皆さんの認識はどのようなものだろうと問う
てみたくなり…。
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感染者急増、医療体制逼迫の状況、度重なる緊急事態宣言
の発令、国民誰もが渦中にいて共有しているはずの現実。し
かし、その受け止め方はそれぞれ…、自分は感染しない、羅ると思わない、周囲に感染者がいない、今更自分が注意したと
ころで、外出や食事を我慢なんて出来ないしする気もない、
政治家の姿勢が姿勢だから自分達だけ我慢なんて…等々。誰
が誰を守るためのものなのか。
コロナ禍の中で一年遅れ等々異例尽くめでの実施となっ
た8月の東京五輪。実施に関しての賛否両論は開催前も開催
後もエスカレート。民主主義の社会、言論の自由…、自身の思
いを言葉にするのは何も問題ないが、ボランティア、選手
等々関わった人達への個人攻撃等々、目や耳に届く画面の向
こうにいる人たちの様々な思いに触れる、それぞれの意見へ
の同調者も常にいる。意見の賛否ではなく報道に載る時、そ
の言葉の力、影響力、発信する者の責任はどうか…と、思わず
にはいられなかった。自身の思いで声を挙げるのは個人の自
由だがその後の人としての行動、上記の「慣れ」も含め、改め
て私自身も人と関わりながら生きるひとりの人間としての
責任、自覚、行動を思い返してみた。一日も早いコロナ禍から
の解放を、これまでの日常を、思い願いながら。
華道専慶流 西阪慶眞 |